カルペディエムの花は蓮

「ありがとうございます。では休憩五分でお願いします」
 言い置いてからタイマーを作動させ、クロッキーブックへと目線を戻す。戻したところで、名前を呼ばれた。
「大瀬さん、休憩は?」
 僕のことか、そうか。呼ばれている。鉛筆を握りなおした。
「モデルのための休憩なので、描く方は別に……ずっと座ってますし」
「なるほど。制作中に声をかけてしまい失礼しました」
「いえ僕の説明不足です。すみません」
 頭を下げて詫びる。天彦さんは勧めた椅子を使わず、ストレッチをしているらしい。そっと顔を上げると彼の丸い踵が見えた。目線を、今描いていたページに再度戻した。

 天彦さんに人物クロッキーのモデルを依頼した。十分間のポーズ二回と休憩五分を一セットとして三セット。
 昨日の日中、部屋を出たら同じタイミングで廊下に出た天彦さんと鉢合わせになった。違う香りがした。いつもの熟した甘さとは別の、瑞々しい青葉のような。気づいたら僕は「あなたを描かせてください」と口走っていた。
「ご指名いただき光栄です。このあと外出するので、帰ってきてからでよろしければ」
「あの、今の香りを描きたいんですが、どのくらい……いえすみません、今日はいつもと違うから、違う気が、したので」
 彼の返答は穏やかで、願い出たはずの僕のほうが混乱している。しどろもどろになりながら説明をした。天彦さんの纏った香水にインスピレーション(というのもおこがましいが)を得たこと、香りから受けた印象を具象化したいこと、それは普段とのギャップも含めた印象だと感じているため天彦さんをモデルにクロッキーを何枚か描きたいということ、それと、時給換算で最低賃金並みの謝礼になってしまいそうなこと。
 天彦さんは要領を得ない僕の説明を容れてくれただけでなく、「時間経過による変化が大きい香りなので」と翌日に改めてクロッキーの場を設けると言ってくれた。謝礼についても彼から是非にと出された代案に替えた。
 ポーズについては、こういう頼み方をした。
「“天堂天彦が一番セクシーに見えるポーズ”を六種類。それを、世界セクシー大使から僕に提案してほしい」
 我ながら、面の皮が厚すぎて頭が首からもげそうな注文をしてしまった。そのまま無様に生首晒して死のうと思った。一番を六種類ってなに言ってんだろう、とも思った。
 けれど、いくら世界広しと言っても天堂天彦その人は一人しかいない。だから、それが必要ならそう依頼するしかなかった。
「セクシーな目だ、大瀬さん。先約なんてキャンセルしたくなるほど――」
 答えてくれた彼の声は、流れ始めた夜霧のようだった。
「――名残惜しいですが行かなくては。明日の夜にまた」
 その声は低く、湿っていた。

 タイマーが鳴った。設定を変えながら「次の十分間スタート指示ください」と声をかけた。肯定が返ってくる。顔を上げた。
 天彦さんはゴミまみれの部屋を背景にしている。白々しい蛍光灯の味気ない陰影をまとっている。それでも尚、彼の姿には迫りくるものがあった。
「どうぞ。大瀬さん」
「……では今から十分間お願いします」

 天彦さんが選んだ最初のポーズは、床に横臥する体勢だった。手足を曲げ、ゆるく背を丸めている。意外といえば意外だ。途中休憩もあるとはいえ拘束時間が七十分間あるので、床や椅子に体重を預けられる体勢は後半だという先入観があった。
 が、描き始めてすぐに気付く。顔に前髪が落ちている。どこから描いても、その眼を覗くことができない。いきなり目が合わないように気を使ってくれたのかもしれなかった。
 朝露を冠したグリーンが香る気配は、ずいぶん遠い。彼が抱き込んでいるため僅かにしか漂ってこないらしい。
 タイマーが鳴り、天彦さんは立ち上がった。視線は彼にとってのやや斜め上、外が覗ける窓に据えられている。両手を背中に回したそのポーズは虜囚を連想させた。
 しかし彼は、囚われの境遇を意にも介していないといったふうに胸を張っている。唇に笑みを湛えている。そして首の傾げ方には、理不尽を跳ね除ける潔癖さがある。清らかな花の香りをうっすらと漂わせた聖人の凛々しさ。「あっ」と声が出そうになった。
 最初のポーズは単に気を使ったんじゃない。あれは蕾だ。僕に差し出された蕾だった。僕は間近でその開花に立ち会うことになるらしい。花弁の擦れる幽き音すら聞こえそうなほどの距離。

 最初の休憩時間開始のタイマーを操作しながら、「とんでもない頼み事をしてしまったのでは」と今更すぎることを考えた。怖ろしいことに、角度や構図を検討する余地がない。提示されているのはこの位置から描くべきポーズだ。そうとしか思えないくらいの説得力がある。
「次の十分間のスタート指示ください」
「わかりました」
 顔を上げた。僕はようやく彼の目をまともに見ることができた。彼が「名残惜しい」と囁いた、あのときと同じ目をしている。
 彼がシャツのボタンをひとつ、ふたつと開けるにつれ、とろみのある香りが明らかに強まった。その変化については心づもりをしていたはずだった。それを描かせてほしいといったのは自分だ。それでも、圧倒された。
「どうぞ、大瀬さん」
 いざなわれるように、ほとんど上の空でタイマーを操作した。
「……では今から十分間お願いします」

 彼はスツールに深く腰かけ、彼自身を抱き締めながら極端な前傾姿勢でいる。まるで、蛹の背から身を乗り出してはいるが翅を伸ばす直前の蝶。その身悶え。無花果の葉を半ばから折りとった青さと、満開の白蓮から滴りおちるような滑らかさが渾然一体となっている。用意したチープなスツールが、まるで彼を羽搏かせるために選ばれた特別なもののようだと錯覚すらした。僕の自惚れと執拗な観察を跳ね除けたまま、十分間、蛹は未分化なままだった。
 次の十分間はほとんど普段の立ち姿だった。それなのに、彼がシャツの裾を出して肌蹴てしまうと、途端に、たまらなくなった。蓮の清廉を模したその香りは、迷う者を慈愛で包むようなとろけ方をしていたはずだ。その包容はいつしか在り方を変え、触れるものすべてを堕落させかねない甘さに変わっている。底が見えない。

 二セット目の休憩に入っても鉛筆を動かし続け、見えている形と見えていない容とを出来るだけ捉えようと必死になった。見えるものも見えないものも、彼から受け取る刺激は全て、そのときのニューロンの発火すらも描出したかった。無謀な時間はあっという間に過ぎた。
 普段なら「なんで天彦さんは僕みたいなやつに」とかなんとかグズグズ言って、彼が割いてくれた時間を無駄にしかねない。が、幸いにもそういうことにはなっていない。引き受けてくれた理由がわかっているから。
 その理由は、判明しているというだけで理解しているわけではないが。

 三セット目が始まる前に、天彦さんは着ていたシャツを脱いで綺麗に畳んだ。上半身を剥き出しにして跪坐の姿勢をとる。ここに至り、香り豊かな蓮が浮かぶ楽園の湖は、人心惑わす魔性の罠と化した。罠のかたち、或いは彼の底が見えた……そう思ったのも束の間、その全き黒の濃さを目の当たりにしてクラクラする。あらゆる観測を飲みこむような彼の恐るべき受容。
 最後の十分間。タイマーの音と同時に、彼が正座をくずした、と思ってからは一瞬だった。
 背を逸らし、天を仰ぎ、倒れ込む。志なかばで事切れてしまったように。異様だ。天井より高いどこかを見ている虚ろな目、何かを受け止め損ねた形に開いている両手。呼吸をする胸が充分に上下していることで、かろうじて、この異常事態は彼のとったポーズなのだと飲みこむことができる。ごくり、と。鳴ったのは自分の喉だった。
 気付けば、無い記憶を描いていた。この部屋を出てドアを閉める直前の彼の背を。いや、その残り香を描いたのだった。瞬きも惜しんで、露と消えた蓮を、逃げ水を追うように。衝動に任せた恥ずべきドローイングは、まるで遺精だった。

「お疲れ様でした……本当にありがとうございました」
「大瀬さん、かなり消耗した声ですね」
 言うなれば“翻弄された”としか言いようのない七十分間だった。元々頼み込んだのはこっちで、彼はほとんど動いていないのだから、完全な言いがかりでしかないけれども。
 天彦さんにクロッキーブックを渡そうとすると、服を元通りに着た彼はスツールを動かし、僕の正面に座った。
「あの、天彦さん? 時間です」
「十分間のポーズ二回と休憩五分で一セット、でしたね」
「でした」
「あと五分あります」
「……そう仰るなら」
 最後のタイマーは天彦さんがセットした。
 とはいえ、元々こちらとしては六回のポーズで描くべきものを全て描きとめるつもりでいた。五分間退屈させるだけだろう。体感を絵に落としこもうとした七十分間の試行錯誤をぱらぱら捲った。彼の姿を愚直になぞったページと、印象の具体化に腐心したページと。混在している。
 天彦さんの位置からは表紙と裏表紙以外見えないだろうが、その視線は痛いほど僕の顔に突き刺さっていた。昨日から何度か見ている彼の目、期待にも似たその表情。先々まで見透かした上で楽しんでいるようでもあり、先のことが分からないからこそ楽しめるのだと言いたげでもある、不思議な目。
 天彦さんの纏う香りは、今となっては夢のように霧散していた。その霧の厚みをタイマーが鳴るまで描いた。
「こちらこそ、ありがとうございました。お疲れ様でした」
 きっちり三セット目までをやり遂げて、天彦さんは笑ってそう言った。事前の約束通り、彼にクロッキーブックを渡す。
「……本当にいいんですか」
「とても嬉しいです。代わりの無いものですから」
 時給換算の報酬ではなく、描かれたうちの一枚が欲しい。それが、天彦さんの出した代案だった。昨日は、天彦さんがクソ吉の無茶振りを請け負ってくれるなら交換条件は何でも飲む、という気概があった。けれど今になって思えば、時間をかけてつくったわけでもない未熟なものを渡すのが何とも居たたまれない。それに、この表情を見ていると、彼の選ぶページが何故かわかるような気がした。輪をかけて居たたまれない。
 天彦さんが選んだのは、案の定、無い記憶を描いた一枚だった。恥ずかしい。

(了)