Q.E.D.

 考えるのを止めて黒いバスタブに立っている。いつまで経っても冷たいシャワー。黄ばんだ水流に濡らされているシャワーカーテン。その裾をバスタブの中に垂らしておける位には冷静だった。シャワーを頭から被ってギシリと奥歯を噛む。換気扇が似たような音を立てて止まる。裸の肩を自分で抱く。寒い。ストライキ寸前の換気扇のせいで湯気が籠っているバスルーム。それが、こんなに寒い。ああ本当に、いつまで経っても冷たい気がする。確かに安ホテルの壊れかけたシャワーではあるのだが。
 栓をしたバスタブの底に留まる湯は、そろそろ踝に届こうとしていた。

「お前が撃たなきゃ俺は死んでた」
 ルパンは何度もそう言った。俺がバスルームに入る直前にも、ホテルに着いた直後にも、車内でシガレットライターを使った時にも、使い捨ての逃走車に乗り込むべく駆ける最中にも、何度も。しかし最初は、人を殺した俺が凍りついていた時だった。
 泥棒に転職して半年程度経つし、無益な殺しはしないとしていた。殺さなくても止められた。それでも、ルパンに向けられた殺気に反応して俺は男を一人殺した。守る事は未だに不慣れなのだと言って、終いに出来る筈はない。心底惚れた男と交わした言葉が弾の一発で飛び散った。凍りつく。理解したルパンが俺を呼んで、何とか死なずに済んだものの、それからずっと身体の中がキンと凍えて歯の根が鳴る。

 悪寒を呼ぶ恐怖を思い起こす間に、溜まった湯は足首を浸す所まで来ていた。膝まで来たら、シャワーを止めてバスタブの栓を抜こう。そう決めた途端にバスルームの扉が開いた。
「次元」
 ルパンはカーテンの外から手を差し入れて、蛇口を捻ってシャワーを止めた。カーテンを開ける。ジャケットを脱いでネクタイを外し、開いたシャツの首元からクッと持ち上げられた鎖骨が覗く。
「……すぐ出る」
「いいよ。もうちょっとゆっくりするつもりだったんだろ」
 手を伸ばされる。狭いバスタブの中で後退りをすると、たぱんと湯が跳ねた。触れたら、そこから何もかも読み取られそうで怖い。
 心臓を動かすようにとは行かないまでも、息をするように人を殺せる人間だということを初めて自覚した。情けないことに、初めて、だった。屑。それでも屑は屑なりに、ルパンの為なら息を止めていようと決めたのに。
 俺はひょっとするとルパンを殺したいのかもしれない。いや、そんな事は有り得ない。奇跡を擬人化したような、視線がかち合うとめまいを覚えるような光。それをこの手で? 濡れた手を見る。有り得ないと内臓が軋む。ただ、頭蓋の中の軟らかい所は黙っていた。生きる為に仕方無くと言いながら、本能のように人殺しをする男が、人間に惹かれる理由は何だ。殺せるか試したくなるからじゃないのか? 歯車の一つとしてどうせ使い捨てにされるなら、せめて死ぬまでは血沸く通りに生きろと灰色の塊が息も絶え絶えに呟いた。
 怖いのは、また信じられなかったと気付く事。その前に殺すという選択肢が自分の中にある事。その選択肢が生まれる程に一人の男に入れ込んだ事。やめておけと脳が叫ぶのに、ルパンの肩に濡れた指が縋る。
 ルパンはまた俺へと手を伸ばしてくれた。そうしてその手で俺の肩甲骨を包む。反対の手は腰を抱く。
「次元、俺はお前を慰めたい訳じゃない。宥めて利用し続けたい訳じゃない」
「何が言いたい」
「おいおいしらばっくれるのか、相棒?」
 頭が割れそうに痛い。氷が砕けるように、今なら簡単に粉々になると思った。ルパンの手に力が籠る。冷えた身体を抱かれる。ルパンの体温が高く感じる。肩から鎖骨、鎖骨から首へ。指をやめて次は手のひらで、最後には腕でルパンの首を抱く。
「相棒、か」
「耳慣れないか?」
「ああ」
「俺も」
 肩甲骨に触れていたルパンの手が離れて、バスタブの栓を抜く。冷めた湯が捩れるように流れて、空になった所にルパンが入ってきた。焼けそうな程に抱き締められて、抱き締め返す。ルパンが入ってくる。染み込んで、分かちがたいものになる。
 どこからどこまでが次元大介なのか。それを俺より理解しながらそれでも俺を選んだルパンが、俺の中にいるのは当然か。
「ルパン、済まない」
「聞こえないな」
「済まない、濡らした」
「そんなこと気にしてたの」
「……ああ」
「いいんだよ。お前は俺、俺はお前」
 ようやく人に戻った俺は情けなく頷くしか出来なかった。ああそうか、こうなる為に俺は生きてきたんだ。

(了)